
”R ”という名のその喫茶店は駅から私の大学へ行くまでの
メインストリートに面し、脇道へ入るその角地にありました。
ガラス張りでカウンターがメインで、6〜7人も入れば一杯に
なる様な小さな店でした。
私が大学の3年の頃に出来た店で、その頃は私にも行き付けの
店が何軒かあったので、しばらくは入る事も無く前を通るだけ
でした。
ある日の事、その店の前を通ると中に知りあいの女子がいました。
カウンターに座っていた彼女は外を行く私に気づくと中で手を振り、
”入ってくれば..。”みたいな仕草をしていました。
水上スキー部でみんなからチャコと呼ばれていたその女子は、
ショートカットで日焼けしていて、化粧っ気も無いのにとても
カワイイ子でした。
そしてその時初めて私は、そのRという店に入ったのでした。

「よォー、チャコ。調子はどうよ。」
「まあまあかナ..。」
こんな挨拶を交わしながら私は彼女の隣のカウンター席に座りました。
「いらっしゃいませ..。」
カウンターの中から私の前に優しく水を出してくれたのが、そのR
のママでした。
私より10歳位年上と思われるママは、決して派手では無いけれど、
清潔感と透明感のある、控えめなとても綺麗な人でした。
私はコーヒーを注文し、
「チャコはこの店良く来てるの?」と聞くと、
「うん。結構ネ...。」ママと顔を見合わせ二人で頬笑みました。
「そうかァ..。」
「あのさ、○○君(わたしの名字)、このママの名字、○○君と
同じなんだよ。」
「あッ、そうなんスか..。」私はママの方を向いて聞いてみると、
彼女はとてもやさしく、
「ハイッ、...。」と答えたのです。
私はその時のそれだけのやりとりで、なんだかホンワカした気分に
なったのを今でも思い出すのです。
”優しそうで、素敵な人だなァ...。”
きっと大人の女性に対する憧れとか、いろいろな感情が入り乱れ、
その一瞬でもうすでに好意を持ってしまったのだと思います。
まあ私もその当時は20歳位の血気盛んな時期でしたので、勿論
彼女もおりましたし、その他の女子とも良く遊んでいた頃でした。
それでもそんな私がそのママに対してだけは、やましい気持ちなど
一切起きる事無く、ただ顔を見ていたい、話がしたいという気持ち
だけで、それからは一日に一回は店に顔を出す様になりました。
小さなその店はガラス張りのおかげで、明るくて日当たりが良く、
ドアを一歩入ると周りの雑踏がウソの様に静かで、ラジオのFMの
音だけが小さく流れていて、カウンターの中でママが静かに本を
読んでいる、まるで日だまりの中のような、そんな店でした。

私が試験の時期にコーヒー一杯でカウンターに本を広げ、やりたくも
無い勉強をしていた時なども、ママが黙って厚切りのバタートースト
を出してくれたりして、私はますます大人のママに惹かれて行きました。
そんな素敵な人がママの店ですから、私だけがそんなふうになっている
訳では無く、友人達のだんだんその店に通う様になりました。
とはいえ、6〜7人も入れば一杯になる店でしたから、入れない事も
しばしばありました。
友人の中にはママに差し入れやプレゼントをするとんでもない奴も
現われ、私も”こうしちゃいられない、何とか一歩ぬけださなくては..。”
といろいろ気を使って差し入れしたりしたものでした。
ある日私はカウンターの端の白い壁に、私の神宮球場での写真を
「ママ、これ貼ってもいい?」と図々しくも聞いてみると、
「ええ、いいわよ。」とママ。
”ようしっ、やったぜ。これで一歩抜け出したゼィ。”
私は写真を貼りました。
「イイ写真ね。カッコイイー..。」とママ。
「そッ、そッ、そうかな...。」もう私は有頂天でした。

ところが2〜3日ちょっと間を開けて店に行ってみると、なんとその壁
一杯に他の運動部の連中の活躍している写真が貼られているではありませんか。
”うわー、なんだよコレー..。”
「ママ、これってどうしたの。」
「みんなも貼らしてくれ、って言うもんだから...。そしたらこんなに
なっちゃって...。」
”マジかよ.、俺だけだと思ってたのに.。”ちょっとガッカリしていた私に
「でも○○さん(私の名字)の写真が真ん中だから...。」と、優しくママが
言ってくれたのが本当に嬉しかったのを私は今でも思い出すのです。
まあそんな事があったりして、何日かたって私が昼食を食べに学食へ行くと
チャコが何人かの女子と食事をしていました。
私はいつもの様に、
「よ〜、チャコ今日も可愛いネ、調子はどうよ。」と聞くと
「まあまあかナ..。」いつもの様に答えました。

「チャコはRのママと親しいの?」昼食をとりながら私が聞くと、
「う〜ん、少しネ...。」
「あの人はどういう人なの?」わたしが重ねて聞くと
「私もこないだ聞いたばかりなんだけど、なんか旦那さんと別れて、あの店
出したらしいヨ。それ以外はあんまり良く分かんないけど...。」
「...そうなんだ...。」
その話を聞いた時、あの優しい笑顔の陰にきっといろんな事があったんだろうな
という事はまだガキだった私にも分かり、何だかちょっとショックでした。
「そうかァ..。でも全然そんな感じしないよネ。いつも優しいし、笑顔だし..。」
「そうだよネェ..。」
この様に私達にとって心の拠り所の様な店でしたが、月日はアッという間に
過ぎ、私達も卒業になりました。我々みんながお世話になったママとの
別れでもありました。
「ママ...。卒業しても来るからネ...。」
その後私達が卒業して2年位してRは店を閉めたと風の便りに聞きました。
”やっぱりあれじゃ儲からないよなあ..。又、苦労を背負い込んじゃったの
かも知れないなァ...。”

そんな記憶も薄れかけた、卒業後5年程たって私達の同期の運動部の同窓会が
ありました。会も盛り上がり最後に全員で締めの校歌と応援歌を歌うちょっと
前でした。例のチャコがみんなの前で言ったのです。
「今日はみんながお世話になったRのママが来て下さってます!」
”えッ、ほんとに..。”
会場の端っこにママが恥ずかしそうに立っていました。
「オォー。」ほとんどの奴らが声を上げました。みんな世話になった奴ばかり
でしたから...。
それから又、ママを囲んでのひと時は懐かしさから大盛り上がりでした。
「あの...、これ....。」ひとしきりたってみんなが落ち着いた時、ママが一冊の
アルバムをカバンの中から出しました。
中を開いてみると、なんとあの店にみんなが先を争って貼った懐かしい写真が
綺麗にファイルされ貼られていたのです。
「あァ...、こんな写真を大事にしてくれてたんだ....。」
「だって..、これは私の大切な思い出だもん...。」ママが遠くをみる様にいいました。
何かみんな言葉を失い、涙ぐんでる奴もいました。
”..やっぱり優しい人だナァ...。”
私も胸が熱くなり、涙がこぼれました。

いろいろ思い出はあるけれど、私とは結局、個人的には深い関係では無かったけど、
私にとって数少ない学生時代の純愛だったなあ、と思っています。
今、思い出してもその笑顔が浮かんで来て、心が温かくなってしまう様な人だったから...。
今はどうしているんだろうなァ....。